健康教室バックナンバー

平成30年11月29日(木)~30日(金)、TJK箱根の森において、第124回健康教室を開催しました。今回は宿泊型で、1日目は臨済宗妙心寺派 寶雲山泰岳寺 副住職の泰丘良玄氏を講師にお招きし、「当たり前の有難さに気づくZENの教え~今を生きることで心が満たされる幸せ~」と題してご講演いただきました。2日目は、「健康経営に関する関心と知識を高めるための講演および実技体験」として、TJK職員による講演・実技体験を行いました。その模様をレポートします。

講師


泰丘 良玄 氏
(禅宗 臨済宗妙心寺派 寶雲山泰岳寺 副住職)

理系から仏門の道に入った異色の経歴の持ち主。室町時代からつづく禅寺の副住職を務めており、爽やかな風貌から特に若い世代に分かりやすく仏教や禅の教えを広めている。特技はエレクトーンやフットサル、ダイビング、ファッション、映画鑑賞にも興味を持つイマドキの感覚で伝える講演は老若男女問わず人気が高い。
目に見えないココロの問題に、禅の精神と理系メソッドで向き合いビジネス感覚で講義するメンタルヘルス研修。旬のキーワードである「マインドフルネス」を軸に、どこでも気軽にできる立位での心の鎮め方など、シゴトでもプライベートでも活用できる内容とあって、若手社員を中心に人気が高い。
ブログや著書で禅の教え伝える傍ら、『ぶっちゃけ寺』や『バイキング』等のテレビ番組にも出演している。

他人を利することで自身も満たされる

仏教の歴史には諸説ありますが、日本に仏教が伝わったのは538年といわれており、1500年近い歳月が経っていることになります。実は、我々が普段使っている言葉の中には、仏教に由来する言葉がたくさんあります。その1つが「檀那(だんな)(旦那)」という言葉です。この言葉はサンスクリット語の「ダーナ」に由来していて、それをそのまま音訳したのが「檀那(旦那)」、日本語に翻訳したのが、実は「布施」です。つまり、「檀那(旦那)」と「布施」は同じ意味を持つ言葉なのです。元来、「檀那(旦那)」というのは妻から見た夫を表わすのではなく、お寺や神社に寄進する人のことをいいます(「那」は人を表わすので、家の場合は「檀家」となる)。これが西洋に渡ると「ドナー」となり、  今では臓器提供者という意味で使われています。
「布施」というのは見返りを求めない施しのことであり、言い換えれば利他の心ということです。仏教では、この利他の心というのを非常に大事にしています。他人を思い、他人を利する心を大事にすることによって、自分自身の心も満たされる、というのが原点にあります。たとえば、外出先で見知らぬ人が目の前で突然倒れたとしたら、おそらく多くの人が「大丈夫ですか?」と声をかけたり、救急車を呼んだり、といった行動をとるでしょう。でも、そこでは見返りは求めませんよね? そんなとき、助けた人は、ちょっといいことをしたような、心が温まるような気分になるのではないかと思います。
 そんな利他の心を実践されている方の一人が、大手企業の名誉会長などを務めていらっしゃる稲盛和夫先生です。稲盛先生は、御著書『成功の要諦』の中でも、「利他の心をベースに経営をしていくと、会社は本当によくなる」とおっしゃっています。また、別のインタビュー記事においても、「人生で一番大事なものは利他の心である」と明言されています。邪心のない美しい心を持っている人には、周囲や神様も味方してくれて、その結果、成功へと導かれるのだ、と。このように、利他の心というのは人を利すると同時に自分も利してくれるものであり、利他の精神というものが心を輝かせ、それがおのずと自分も周りも輝かせていくんだろうな、と感じます。

当たり前にあるものがいかに有難いか、そこに気づくことが重要

また、私たちが日常的によく使う「ありがとう」という言葉も仏教に由来しています。「ありがとう」を漢字にすると、「有難う」となります。有難し、つまり、有ることが難しい、ということなので、この反対の言葉は「当たり前」となります。仏教では、この反語関係にある「有難う」と「当たり前」をいかにイコールで結んでいくか、つまり、当たり前にあるものがいかに有難いものであるか、そこに気づけるかどうかが重要です。
 そんな当たり前にあるものの有難さを教えてくれるのが、「吾唯知足」という禅の言葉です。これは、お釈迦様が残したといわれる『遺教経』に書かれている言葉で、「足る事を知る人は心は穏やかであり、足る事を知らない人は心はいつも乱れている」という意味です。これにはさらに続きがあって、「足る事を知る人は地面で寝るような暮らしを送っていても安楽である。足る事を知らない人は豪邸で暮らしていても満足しない。足る事を知らない人は裕福であっても心は貧しい。足る事を知る人は貧しくても心が豊かである。足る事を知らない人はいつも欲望に流されて、足る事を知る人から憐れまれる」とあります。やはり物や金ではなく、いかに心が足る事を知っているかが真の豊かさである、ということを教えてくれる言葉だと思います。
 この言葉について考えたとき、私は自分の修行時代を思い出しました。24歳の4月に修行道場に入門したのですが、そこで自分に与えられたスペースは畳一畳。壁もなく、まさに起きて半畳、寝て一畳という生活です。布団は柏布団と呼ばれるもので、1枚の布団を二つ折りにし、その間に入って寝るため非常に窮屈で、枕もありません。そのようにあらゆることが衝撃的で、しばらくはそのギャップに苦しみました。そんな修行生活の中で唯一、8月のお盆の時期だけは自分のお寺に帰ることができます。そして、私も4カ月ぶりに自分のお寺に帰り、久しぶりに自分の布団で寝たときに「こんなに気持ちよかったんだ!」と、それまで当たり前に使っていた布団の有難さに気づかせてもらいました。と同時に、私がさんざん不満を感じていた修行道場も実は有難い環境であり、そのことに気づかなければいけないのでは、と思ったのです。修行道場はクビになることもなければ、家賃も必要ないし、しかも三食寝床つき。衣食住の心配は一切必要なく、修業をする場としては最適な環境なわけです。私は、その有難さに気づくことによって、あらためて修業というものに前向きになることができました。
日常において、当たり前の有難さに気づくというのはなかなか難しいかもしれません。でも、ひとたび大災害が起きると、水が出なくなったり、停電したり、といった状況に陥ります。そうして当たり前にあったものが制限されたとき、我々もその有難さに気づくことができます。ですから、ときには当たり前の環境を俯瞰してみたり、少し厳しい環境に飛び込んでみたりすると、あらためて見えてくることがあるのではないでしょうか。

坐禅では、現実の自分と本当の自分を一致させることを目指す

禅宗の修行の1つに坐禅があります。坐禅の「坐」という字は、「土」の上に「人」という字がのっていて、まさに坐禅をしている姿を表わしているようにも見て取れます。そして、「人」という文字が2つありますが、これは現実の自分と内面にある本当の自分を表わしていて、この2つをイコールで結びつける、一致させるというのが坐禅の醍醐味です。みなさんも普段の生活の中で、顔では笑っているけれど心で怒っている、ということがあると思います。これはまさに、この2つが一致していない状態で、一致していないからストレスが起こるわけです。坐禅では、現実の自分が自身の内面に目を向けて、現実の自分と本当の自分を一致させることを目指します。
 また、「なぜ坐禅は静かに座るのか?」という質問をよく受けますが、これを説明するために、泥水が入ったビーカーを思い浮かべてみてください。これは、普段の忙しい心の状態を表わしています。インターネット社会で情報が溢れ、人間関係も複雑化して、仕事に追われる日々を送っていると、周りに振り回され、ビーカーの中、すなわち心は泥水がかき混ぜられた状態になります。忙しいという字は「心を亡くす」と書きますが、まさに自分の心がよくわからなくなっている状態です。坐禅では、静かに座ることによって、この淀んだ泥水を泥と水に分けるのです。ビーカーを静かに置いておくと、きれいな水が浮かび上がり、泥は沈殿します。これと同様に、自分が悩んだり苦しんだりしている原因が見えてくると同時に、きれいな心、美しい心というのが現れてきます。これが坐禅で静かに座る理由です。

坐禅についての基本的な説明があったあと、参加者のみなさん全員で実際に坐禅を体験しました。坐禅は、「調身」「調息」「調心」という3つのステップで行います。以下にポイントをまとめましたので、参考にしてください。

  • ●坐禅のしかた
  • ①姿勢を調える(調身)…土台となる下半身を安定させ、背筋を伸ばす。目は半眼(顔は正面に向けたまま視線を落とし、1メートルから1メートル半くらい先の地面をぼんやりと見る)。
  • ②呼吸を整える(調息)…へそ下の丹田を意識して、ゆっくりと腹式呼吸を行う。息を吐き切ることが大切。
  • ③心を調える(調心)…無の境地。二念を継がず(下記参照)。受け流すトレーニング。数息観(下記参照)。

「何も考えないように」と言われても、何かしら念が起こってしまうものです。これはしかたないのですが、大事なのはその念を次につなげないこと。これを「二念を継がず」と言います。たとえば、「おなかがすいたな」と思ったあと、さらに「カレーが食べたいな」と思ってしまうのは、念をつなげていることになります。そうではなくて、「おなかがすいたな」と思ったら、それだけで受け流す。次に何か別の念が浮かんでも、また受け流す。それをくり返していくことで、おのずと何者にもとらわれない自由な無の境地が体現できるようになります。
 もし、どうしてもいろいろなことを考えてしまうという場合は、「数息観」といって、自分の呼吸を数えるという方法もあります。1つ、2つと呼吸を数え、10までいったらまた1に戻る。そうすることで、深い呼吸が意識できると同時に、余分なことを考えなくてすみます。
坐禅をすると人それぞれいろいろなことを感じると思いますが、まずはそれに気づくことが大切です。忙しい現代だからこそ、ちょっと心を鎮めてみる時間というのをぜひ取り入れていただけたらと思います。

「独坐大雄峰」という言葉から学ぶこと

もう1つ紹介したいのが、百丈禅師(ひゃくじょうぜんじ)(中国が唐の時代に活躍した禅僧)の言葉「独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)」です。あるとき、弟子が「如何なるか是奇特の事(この世でもっとも有難いものは何ですか?)」と百丈禅師に尋ねました。それに対し、百丈禅師はひと言「独坐大雄峰」と答えたのです。大雄峰とは中国にある山の名前で、「私は一人この大雄峰に座っておる」という意味です。これは私なりの解釈ですが、「今、この大雄峰で坐禅ができている、その有難さに気づかないのか?」ということを百丈禅師は弟子に伝えたのかな、と思いました。
実は2年ほど前、この大雄峰に私も研修で行かせていただきました。江西省の南昌からバスに乗り、舗装されていない道を長時間登って、ようやく大雄峰にたどり着きました。ところがこの日はあいにくの雨で、素晴らしい景色を期待していた私は内心がっかりしていました。すると、同行した先輩が「百丈禅師が坐ったときもやっぱり雨が降っていたのかな」とつぶやいたのです。そのときに私は、自分の妄想に気づきました。先ほどの問答には、きれいな景色が有難いとか、雄大な山々が有難いなどということはどこにも書いていない。ただ「坐っていることが有難い」と書いてあったはずなのに、私が勝手に勘違いしていたんだな、と。人間というのは、晴れていれば「天気がいいですね」、雨が降れば「天気が悪いですね」と言いますが、本来、天気に良い、悪いはありません。自分にとって都合がいいから良い、都合が悪いから悪いと言っているだけで、良い、悪いというのはまさに自我が思っているわけです。
 この旅を終えて家に帰ると、私の二人の子どもが駆け寄ってきて、「お帰り!」と迎えてくれました。そのとき、すごく幸せだなとあらためて感じました。私は、理想の境地を求めて中国へ行ったけれど、自分の家こそが理想の境地だったのだ、と。そうした当たり前の有難さに気づくということが、百丈禅師が言わんとする「独坐大雄峰」の真の意味なのかな、と思いました。

日常に活かす禅的修行

仏教における修行も、まさに当たり前の有難さに気づくために行っていると言えます。そこで最後に、日常に活かすことのできる禅的な修行を3つ、紹介します。

  • ①規則正しい生活をしてみる!
    日常生活の中で何かしらのルーティンを持っていると、生活にメリハリがついて、大事な場面でベストパフォーマンスが発揮できる。
  • ②玄関で靴をそろえてみる!
    玄関は、空間と空間の境目となる神聖な場所。そこで靴をそろえるという行為により一拍おくことで、おのずと心も切り替えることができる。
  • ③起床後や就寝前に坐禅をしてみる!
    坐禅をすると心が定まった状態になり、迷いのない静かな心を取り戻せる。朝行えば心機一転するし、夜寝る前に行えば非常に落ち着いた状態で眠ることができる。

修行とは「行いを修める」と書きますが、一つひとつの行いを修めることによって、後から何かしらの結果がついてくる、というのが修行の醍醐味です。これを機会に、禅的修行を日常生活に取り入れていただけたらと思います。

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