健康教室バックナンバー

平成30年2月27日(火)、TJKプラザにおいて、第122回健康教室を開催しました。今回は、元プロ野球選手でスポーツコメンテーターの山本昌氏を講師にお迎えしました。32年間、中日ドラゴンズ一筋で活躍された山本氏に、1つの場所で1つのことをやり続ける力、また、そこで結果を残し続けること、常に向上心を持ってやり続けることのむずかしさなどについてお話しいただきました。その様子をレポートします。

講師


講師 山本昌 氏
(元プロ野球選手/スポーツコメンテーター)

1984年に入団して以来、32年間中日ドラゴンズ一筋で活躍したフランチャイズプレイヤー。プロ生活32年、実働29年はいずれも歴代最長で、数々の最年長記録を樹立している。3度最多勝に輝き、94年には沢村賞を受賞。2006年には史上最年長でのノーヒットノーラン、08年には通算200勝を史上最年長で達成した。プロ通算219勝のうち半分以上の140勝を30歳以降に記録しており、また40歳以降でも46勝を挙げた「中年の星」、「レジェンド」として記録にも記憶にも残る名投手として知られる。

人生の転機のカギを握る3つのキーワード

小学生のときに野球を始め、50歳で現役を引退するまでに大きな転機がいくつかあり、そこには3つのキーワードがありました。1つは、何かしらの準備ができていたこと。2つめは、素晴らしい出会いに恵まれたこと。そして3つめは、自分がどん底のときこそ変われるチャンスだった、ということ。そのようなことをくり返しながら、50歳までの野球人生を歩んできたように思います。

私は神奈川県茅ヶ崎市出身で、小・中学校と地元の野球部に所属していました。同じチームには、茅ヶ崎市で一番の怪童くんがいて、彼は非常に素晴らしい選手でした。一方、私はとくに才能に恵まれていたわけでもなく、ずっと補欠でした。
中学2年生のある日、私はなんとかその怪童くんに勝てないか、という思いで、4㎞のジョギングと100回の素振りを日課にすることを決意しました。卒業するまで1日も休まずに続けましたが、怪童くんにはいっこうにかなわず、最上級生になっても背番号10番をつけてベンチで応援していました。担任の先生から進路指導を受ける際も、プロ野球選手になりたいとはとても言えず、将来は教員を目指すと言っていました。
 そして、3年生最後の大会直前に、その怪童くんが腰を負傷してしまいました。やむなく彼が4番レフトというポジションに変わったために、私は初めて背番号1番をつけて大会に臨むことになりました。その結果、茅ヶ崎市の大会で優勝、湘南大会でも優勝し、県大会出場という好成績を収めることができ、そのおかげで、日本大学藤沢高校へ進学できることになったのです。
 プロへの道は半ばあきらめていたものの、なんとかその怪童くんに勝ちたい!という一心で毎日黙々と続けていたジョギングが、知らない間に投手としての力もつけていた。もし、そうした努力をしていなかったら、マウンドに立てるチャンスが巡ってきたとしても勝ち上がることはできなかったと思います。

プロ入りの基盤をつくってくれた先輩の一言に感謝

そして高校へ入学したものの、結局3年間、神奈川県のベスト8の壁を破ることはできませんでした。そのなかでも忘れられないのが、高2の春の県大会。準々決勝で横浜商業と対戦し、14対0で敗退しました。帰り道、この日の試合に登板した先輩投手から「明日朝7時に来い」と言われ、私は言われたとおり、7時に学校へ行きました。すると先輩は、「今日から一緒に走ろう」と言うのです。そして、その日から毎朝6㎞、先輩と二人でジョギングをし、さらに週1回は200球の投げ込みをすることになりました。この先輩というのが、現在、群馬県の前橋育英高校で野球部の監督をされている荒井直樹さんで、私が一番尊敬する野球人です。そうして、先輩にとって高校最後となる大会に挑んだものの、ベスト8で敗退という結果に。私が最上級生になってからは、後輩を連れて毎朝のジョギングを続けましたが、甲子園出場の夢は破れました。

そして1983年の夏、また1つの転機がやってきます。この年、神奈川の高校野球連盟が神奈川選抜というチームを作り、その控え投手として私も招集されました。エースは、桑田・清原のいたPL学園とも甲子園で対戦をした三浦将明投手。ところが、三浦投手は日本選抜に呼ばれたため、繰り上がりで私が神奈川選抜のマウンドに立つことになりました。その年は、韓国のナショナルチームと対戦したのですが、なんと強豪を相手に勝ってしまったのです。
11月、いよいよドラフト会議がやってきました。この年はとにかく豊作で、高校のスター選手たちがどんどんドラフト上位に指名されていくのを、私は完全に他人事としてラジオで聞いていました。ところがなんと、中日ドラゴンズが私をドラフト5位で指名してきたのです。それを聞いて、素直に嬉しいという気持ちもある反面、すでに大学への推薦入学も決まっていたし、神奈川県でベスト8しかいけなかったピッチャーがプロでは通用しないだろう、という思いもありました。しかし、家に帰ると、父がとても嬉しそうな顔で「どうするんだ?」と聞いてきました。父は、私が小学生のころから試合は必ず毎回見に来てくれるほど野球が大好きで、しかも、かねてからドラゴンズの大ファン。そんな父の姿を見ていたら、「親父のためにもいっちょ勝負するか」という気持ちになり、プロ入りを決心しました。
 もし、14対0で負けた高2の春に、荒井先輩が「おい、走るぞ」と言ってくれていなかったら、おそらく私はプロに入れるようなピッチャーにはなっていなかったと思います。毎日、毎日走って、そして、自分が最上級生になってからも後輩を連れて走っていたことで、知らない間に力をつけさせていただいたのかな、と。ですから、「走ろう!」と言ってくれた荒井先輩にはとても感謝しています。そして、神奈川県の選抜チームでマウンドに立つ機会を与えられ、そこで結果を出せたのも、日頃から準備ができていたからこそだな、と感じました。

苦悩の日々の末、まさかの戦力外通告

そうしてプロ入りしたものの、正直言ってパッとせず、入団1年目からクビの候補に名前が挙がっていました。そんな私にとって強烈に記憶に残っているのが、1984年2月1日。私が初めて中日ドラゴンズのユニフォームに袖を通し、キャンプ初日を迎えた日のことです。ブルペンの横を通りがかると、そこでは、小松辰雄投手、牛島和彦投手、郭源治投手、鈴木孝政投手という4人がピッチング練習をしていました。それを見た瞬間、私の膝は震えが止まらなくなりました。「なんだ、これは!?」「なんてすげぇボールを投げるんだ!」と。私には一生かかってもこんなボールは投げられないな、と観念し、やっぱり来てはいけないところに来てしまったんだ、と後悔しました。その勘は的中し、4年間、まったくプロで活躍することはありませんでした。

そして5年目、なんとか契約は更新してもらえたものの、ドラフト1位でPL学園から入ってきた高卒ルーキー・立浪和義選手の半分にも満たない給料で契約をしました。ですから、「山本は今年で終わりなんだろうな」というのは誰の目にも明らかでした。私自身もそのつもりで、「よし、最後の1年がんばるぞ」と気合を入れて、春のキャンプに臨んでいました。
 ところがある日、星野仙一監督からアメリカへ行くようにと言われたのです。当時、中日はロサンゼルス・ドジャースと業務提携をしていて、その年から交換留学制度が導入され、そのメンバーの一人として選ばれたのです。アメリカ留学というと聞こえはいいですが、実際には戦力外通告を受けたようなもので、非常にショックでした。当時のアメリカでは、ワールドシリーズの試合結果がスポーツ紙の5面あたりにスコアだけ掲載される、というほどの関心の低さ。そんな状況だったので、「私はアメリカに捨てられたんだ」という気持ちで、もう野球をやめてしまいたいと思いながら毎日を過ごしていました。

人生最大の恩師、そしてスクリューボールとの出合い

そんなどん底のときに、一人の恩師が現れました。それが、アイク生原さんです。アイクさんは、亜細亜大学野球部の監督を経て渡米し、ドジャースの会長補佐も務めたすごい方で、そのアイクさんが私の世話人としてついてくれたのです。アイクさんが常々言っていたのは、基本を大事にしなさい、ということ。「ボールは上から投げなさい」「ボールは前でリリースしなさい」「ボールは低めに投げなさい」。野球の基本はこの3つ。しまいには、「ストライクを投げなさい」というので、そんなことはわかってます、と(笑)。もう1つ、「お前には新しい変化球が必要だぞ」といつも言っていました。そして、大リーグの有名なピッチャーのところに連れていってもらい、いろいろな変化球を教えてもらったのですが、なに1つものになりませんでした。
結局、4軍に配属され、シーズンが始まりました。あるとき、キャッチボールをしていたチームメートの1人が、遊びで非常におもしろい変化球を投げているのを目にしました。私はその球に非常に興味をそそられ、真似して投げてみると、驚くほどボールが変化したのです。翌日の試合前、私はキャッチャーに「今日は新しいボールがあるから」と伝えました。そして、2アウト、ランナー2・3塁の大ピンチという場面でそのボールを投げたところ、見事、三振がとれたのです。これが、私に50歳まで野球をさせてくれたスクリューボールとの出合いでした。このボールを引っ提げて成績はどんどん上向きになり、6月からは先発投手となり、7月にはリーグのオールスターゲームにも出場するまでになりました。

飛躍するために大切なのは、毎日携わり続けること

そうしてアメリカで楽しく選手生活を送っていたわけですが、ある日、星野監督から「日本へ帰ってこい」という連絡がありました。日本では中日ドラゴンズが優勝争いの真っただ中で、そんな矢先、ピッチャーの一人がけがをしたというのです。私としては、このままアメリカに残って勝負をしたいという思いもありましたが、監督には逆らえないため、やむなく帰国しました。
 アメリカでの成功は日本でもそのまま通用し、2軍から1軍へ上がり、5年目にしてプロ初勝利を果たしました。さらに、1ヵ月半で5勝してリーグ優勝し、日本シリーズにも先発しました。そして、11月に契約更改をしたわけですが、わずか1ヵ月半がんばっただけで、新人王の立浪選手に並ぶまでに給料が上がったのです。このとき初めて、私はプロになったと思っています。1軍に上がることが夢だった野球選手が、1軍で勝つことが目標になった。この1年での変化は目覚ましいものです。アメリカに渡ったときはどん底で、毎日辞めたい、辞めたい、と泣いていました。ところが、そこでアイクさんという素晴らしい恩師に出会い、さまざまな経験を積んで、そして今、日本のプロ野球で食うだけの力をつけさせていただいた。私にとって、人生最大の転機だったと思っています。
人間というのは、いつ、どこで大きく変われるかわからない。でも1つ言えるのは、大きく変わったり、羽ばたいたりするためには、自分がしたいことに毎日携わることが大事だ、ということ。日々の中では意味がないように思えることでも、仕事であったり、自分が本当にやりたいことには、毎日携わり続けること。これが上達するための基本じゃないかな、と思うのです。毎日携わっていたとしても、花が咲かないこともあるかもしれない。でも、何もしないで負けるよりは、努力して負けたほうが悔いは残らないんじゃないかな、そう思いました。

前向きな気持ち&万全の準備で緊張感に打ち勝つ

私は若いころ、非常に緊張するタイプでした。試合前は体が震えて止まらず、私がロッカールームに入っていくだけで、後輩たちが「あ、今日、山本さん先発だ」と気づくほどでした。あるとき、立浪選手から「もっと楽にいったほうがいいですよ」と言われたんです。それで、東京ドームでの巨人戦に先発した際、ヘラヘラしてマウンドに上がったところ、あっという間にKOされてしまいました。そのときに思ったのは、緊張感から逃げてはいけない、緊張感とちゃんとつきあわなきゃいけないんだな、ということです。投球練習のときにスピードガンで計ってみると、自分が思っているほどの速さは出ていない。ところが、観客で満員の球場で、選手たちが各ポジションにつき、プレーボールがかかると、やっぱり140キロ以上出る。これはやはり、緊張感があるからこそなんですよね。
 では、そもそも緊張感とは何か。これは私の考えですが、緊張感とは恥をかきたくないとか、がんばったらむくわれたいとか、そういう気持ちなのではないかな、と。対等の力の者同士が、どちらに転ぶかわからない勝負をしているからこそ、緊張もするわけです。
 では、その緊張感とどうつきあっていけばよいか。緊張する場面に立たされるということは、言い換えれば、「お前に任せたぞ」という期待をかけられているということです。ですから、「こんなことを任せやがって」と否定的にとらえるのではなく、「よし、やってやろう!」という前向きな気持ちを持つことが大事だと思うのです。そして、緊張感とうまくつきあう方法としては、準備をしっかりすること。これしかないと思います。大事なとき、緊張しそうなときこそ、できるだけ心配事のないように、しっかり準備をしてその場に臨むこと。これが一番大事じゃないかな、というのが私が32年間プロを経験した末に出した答えです。ですから、みなさんも大事な発表や交渉などがあるときは、「よし、今日はがんばろう!」と前向きな気持ちになれるように、しっかり準備をすることを心がけてみてください。

普段の行動は小さな運になって帰ってくる

もう1つ、私がいつも思っていたのは「小さな運が自分にこないかな」ということです。50歳にもなった人間がこんなことを考えながら行動をしているのは滑稽かもしれませんが、小さな運というのは大事です。野球の試合でも、小さな幸運が重なって勝てるときもあれば、不運の連続で負けてしまう、なんていうこともしょっちゅうあります。
 では、どうしたら小さな運を多めにいただくことができるのか。これは、普段の行いに尽きる、というのが私の考えです。自分の仕事、家族、人生に対する態度など、そういう道徳的なことも含めて、普段の行動はすべて小さな運になって帰ってきます。そうでなければ人生はおかしい、と私は思っています。私が32年間野球をしてきて、肩も肘も手術をしないですんだのも、小さな運をたくさんいただいたからだと思っています。
 では、小さな運をいただくために、私がどのようなことをしてきたか。まず、子どものころからグラウンドに唾を吐いたことはありません。また、グラウンド整備の人が引いてくれた白線を踏んだこともありません。そして、ホームベースをむやみに踏むこともしません。あの上にボールを投げてストライクをもらっているのに、わざわざそこを踏む必要はない。ホームベースを踏むのは点が入る時だけで十分だ、と。
 そして、これまで580数試合マウンドに立ちましたが、グラブとスパイクだけはいつもピカピカに磨いてマウンドに上がるようにしていました。ファンの方はお金を払って球場に見に来てくれているのに、汚いグラブやスパイクでは失礼なので、必ず試合前のルーティンにしていました。するといつからか、グラブとスパイクをきれいにし始めると、自分もスイッチが入るようになりました。そのようなことを続けていて、ふと気づいたら、小さな運をたくさんいただいていたな、と。だからこそ、50歳までけがもなく、野球を続けられたのだと思っています。

モチベーションは人が最後まで持ち続けるべきもの

50歳近くなってからは、「山本さん、よくモチベーションがもちますね」と言われることが多くなりました。私自身はとにかく野球が好きだったので、モチベーションが下がったのはアメリカに留学した最初の10日くらいで、あとはずっとモチベーションが高いままやってこられました。では、モチベーションとはいったい何なのか。私の場合、50歳で野球人生が終わったわけですが、そのときに感じたことがモチベーションじゃないかな、と。
引退会見で「私は世界で一番幸せなプロ野球選手でした」と言いました。野球選手であれば、誰もが少しでも長く現役でやりたいはずです。そして私は、誰よりも長く野球をすることができた。だから、世界で一番幸せなプロ野球選手だ、というのは嘘偽りない気持ちです。ただし、悔いはあります。そのうち代表的なのが、世界最年長勝利投手になれなかったこと。最後のシーズン、1つでも勝っていたら、アメリカのジェイミー・モイヤー投手を抜いて、ギネスブックに名前が載るところでした。そのほかにも、いくつか悔いはあります。でも、後悔はしていません。悔いはあるけれど、その時、その時は常に一生懸命やった、という自信がある。だから、結果には悔いはあるが、その過程には後悔はしていない──という話をしました。
 では、先ほど言ったモチベーションとは何か。これは私が出した答えですが、人が最後まで持っていなければならないのがモチベーションじゃないかな、と思っています。私は、今も高いモチベーションをもって野球解説をさせてもらっています。それは、またいつかもう一度、ユニフォームを着て、日本一を目指したい、という思いがあるからです。
人生は一度きりです。何もせずに後悔するよりは、何かをやって悔いを残したほうがいい。ですから、どうかみなさんもモチベーションをしっかりと持って、これから先も歩んで行ってほしいなと思います。

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